如果我們沒有名字,會是什麼樣的光景?もし我々に名前が無かったら、どんな光景だろう?
《小孩.大人》編劇/導演 黃志翔
人は生まれるとすぐに名前を与えられる。
言うならば、名前は他人の目に映る自分や相手であり、社会が自分たちの身の上に烙印したものである。
それによってさまざまな啓発や規律、及びイデオロギーの檻を促す。では、誰かが反抗を選択し、
名前が不要だと選択すれば、それはどんな光景になるのだろう?
《小孩.大人》のストーリーの構想は2003年から始まった。
アメリカをはじめとする西方諸国は「正義與文明」的化身だと自負し、イラクの
サダム・フセイン政権の悪魔化で、「悪の枢軸」と呼ばれ、当時の核心的議題は、
「テロ」と「テロ対策」、まるで2つの名前、2つの帽子のように、アメリカは後者を
自分に与え、前者を相手に送った。イラクに対して行った侵略戦争は、開始して以来
今に至っても血まみれの衝突の収束は不明である。アメリカはこのような
「テロ対策」の名の下に「テロ」という実際の侵略行動をし、世界的な怒りと反抗の波に火をつけた。
《小孩.大人》の発想は、このような怒りに起因する。
この作品は、現在の資本主義社会では見慣れた「略奪と占有」、それらが偏在し、早くから形成される
個人の意思を以って機構の転移をするわけではなく、材料に課せられ、人類自身に課せられ、
更に人々のイデオロギーに浸透し、その結果資産の多寡はよく善悪の指標になり、権勢の出所、
統治と被統治の境目、それによって略奪と占有の危害を与えると言う本質が正当化と合法化の基礎を取得する。
そこで、加害者が被害者と言う羊の皮をかぶり、社会の価値の体系は混乱している、習慣は
他のある種の偏見を用い、偏見に取って代わる、最終的に、人のように労働市場の中では、
等級化、価格化、商品の為に抽象化され、人自身も「擬物化」される。あたかもこのドラマの中の
「小孩」のように、多くの賞金稼ぎの目の中で、彼の名前は時に「一千万」であり、時に「三千万」であり
時に「獲物」と呼ばれる。しかし、彼らに名前があろうが無かろうが、もしくはどんな呼び方をされようが、
自分の人生を再び豊かなものにするために、獲物も反抗者になることができるのだ。
《小孩.大人》は単一の型に定義するのは難しく、簡単な言葉でストーリーを説明するのは難しい作品である。
劇中の人物及びテーマやサブタイトルはシンプルで単純なように見えるが、実際には複雑で曖昧だ。
主要な役を例にすると、各自に多元的な階層を内包している:野生児とみなされた子供、
しかしチャイコフスキーとギリシア文字を理解する:妻殺しの犯人である林振昇は加害者のようであるが
被害者である、獲物とみなされるがまるでハンターのように狩場を主導する;知的財産の
盗用で非難されている蕭孟楓、表面上の報復行動は、実は自分への贖罪の秘密を組み込んでいる;
正義の化身のような方又龍、殺人マシンになることを避けると同時に、もう少しで警察から
指名手配犯にされる。
したがって、どうやって限りある時間と予算の中でこの複雑な作品を撮れる人がいるか?
どうやって近づきやすくさせるのか、多元性を保つのか、しかも大衆に受け入れられるようにできるのか?
これが筆者が編集、監督の創作段階で出会った最大の大挑戦だった。
非常に幸運なことに、公共電視で、映畫公司で、全ての俳優やスタッフの共同作戦の下、
《小孩.大人》はとうとうクランクアップを迎えた。これがすばらしい作品になり、そしてこれが
全ての参加者の共同作品になりますように!
途中、日本語が破綻してるのは目をつぶってください<(_ _)>
久々にこんなに難しい中国語を目にしたので、若干疲弊気味・・・。
会社での暇つぶしに訳そう~とか思ったのが大間違いだったわ。
さすがこのドラマを撮り終えた監督さん・・・日本人の私には難しい文章・・・。
こんなメモがFaceBookに寄せられているんだよねー。
ちなみに、現在は副監督とスタイリストさんの寄稿が上がってるのだ。
他のメモも時間があったら訳したいな~とか思う。
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